どこかで、サイレンの音がした。
PCに向かってキーボードを叩いていた男が、ふとその音で我に返ったというように顔をあげる。
黒髪、褐色肌のどことなく異国情緒漂う男である。
男はPC仕事で凝った背をほぐすようノビをしながら、キィと椅子を回して振り返る。

「彗依」

シエ、と呼ぶ声に応じるよう、暗がりにぼんやりと人影が浮かび上がった。
最初からそこにいたのか、それとも声に応じて出現したのか。
薄暗がりの中、その判断はつかない。
そして、つける必要も男は感じていないようだった。

「……、」

すぅと暗がりの中に蹲る人影が顔をあげる。
鮮やかな緋色の髪、淡い翠の双眸。
色の白い顔が、暗がりとの対比でますます蒼白めいて見える。
漆黒のスーツに身を包み、部屋の隅にて膝を抱えてちんまりと座っている。
その姿は、飼い主に構って貰えなくて拗ねたペットのようだ。
どこかで、サイレンの音がする。

「彗依」

男が、もう一度名前を呼ぶ。

「……、」

ふす、と拗ねたような息を吐きつつ、暗がりで膝を抱えていた青年が暗がりがもそりと這い出た。
四足で、椅子に座ったままの男の元へと距離を削る。
それに緩く唇に笑みを浮かべながら、男はその白い頬へと手を添えた。

「散歩に――……、行こうか」

頬に触れる手から伝わる体温に、すりと柔らかな緋色を懐かせて青年が口を開く。

「ごはんも。食べさして。くれる?」
「――…もしかしたら、な」
「ン」

男の言葉に、上機嫌に緋色の青年がひょいと立ち上がった。
そして早く行こう、とでも言うように座ったままの男へと手を差し出す。
その手をとって、男もゆるりと立ち上がる。
白のシャツに、黒のスラックス。
褐色の肌と相まって男の立ち姿はどこまでもモノクロだ。
その隣の青年の緋と翠だけが色鮮やかに。

「――…行こうか」
「ン」

そうして二人は夜の街へと繰り出していく。





★☆★





 サイレンの音が、夜の街に響きわたる。
赤色灯の光が投げかけられる夜の街角、物々しい様子で制服姿の男たちが慌ただしく駆け回っている。
その様を苛立たしげに睨んで、巨躯の男は唇を噛んだ。

「……クソ」

遊ぶ金欲しさに、強盗を企てたのは思いつきだった。
武器はどの一般家庭にもあるであろう、包丁。
そんな武器のチョイスからしても、その犯行がいかに杜撰な思いつきのもとに実行されたかがわかるだろう。
だが、今そんな包丁は赤黒い鮮血に汚れている。
もちろん、本人のものではない。

「アイツが、抵抗なんかするから……ッ」

そう。
男は強盗に入った先で、店員の命を奪っていた。
それでいて得たものといえば、札が数枚。
とてもじゃないが人の命と引き換えにして良い額とはいえない。
もちろん、ではいくらなら人の命に見合うのか、なんてことは誰にも定義できないわけだが。
警官たちに背を向けるようにして、男は闇の中へと歩み出す。
まずは返り血を浴びた服をなんとかしなければ。
凶器である包丁も、どこかで処理しなくては。
ああ、あの店には監視カメラがついていただろうか。
証拠さえ処分してしまえば、しらばっくれていられるのか。
それとも、逃亡生活を余儀なくされるのか。
血走った目でそんなことを考えつつ、男はふらふらと路地裏を彷徨う。

じゃり、と。

音がしたのはそんな時だった。

「…………」

男がゆらりと顔をあげる。
目の前には、どこから迷い込んだのか、こんな路地裏には不似合いなほど身なりのいい男が立っていた。
その人物は、強盗の格好に驚いたように目を瞠る。
それを怯えだと判断した男は、そのまま目の前にいる人物から逃亡に必要になるであろう物資を調達することにした。
鮮血に汚れた包丁を突き出し、やたら質の良さそうな薄手の黒外套と、持ち合わせを奪おうと恫喝を口にしようとして――……。

「――…食餌の時間だよ、彗依」

それより先に、甘く囁くような声音が路地に響いた。
ばさりと羽音が闇にこだまする。
大型の猛禽が、うつくしく舞うよな音。
男が顔を上げる。
その血走ったまなこに、焼きつくのは緋色。
鮮やかな緋色を闇に靡かせ、昏の双眸に慾を滾らせた獣が、一息に男の喉元に喰らいつく。

「――ッか、」

ごぷりと喰い破られた喉から鮮血が溢れると同時に、男の口から言葉にならない呻きが零れる。
どうと崩れおちる男の体の上にそのまま馬乗りになって、闇より飛び出でた獣――……彗依は噛み裂いた喉より溢れる命を啜りあげる。
先ほどまでは淡い翠に煌めいていた双眸も、今は闇色にどろりと濁り。
ひくひくと戦慄く喉に、ぴたりと唇を押し当て、じゅるじゅるとその甘露を啜る。
愛しいひとを腕に抱き、口づけを送るかのよに、何度も角度を変えて喉に喰らいついては、さらなる出血を煽るよう鋭い犬歯で噛み裂いて。
その背からは、神々しいほどに白い翼が空にむかってのびている。
それは、斃れた人の仔を抱く優しい天使の図にも見えた。
やがて、天使による死の抱擁にも終わりが訪れる。

「御馳走。様」

無造作に、彗依が男の身体を放り出す。
文字通り命を吸われた男の身体は、物言わぬ有機物として地面にごとりと転がった。
食餌さえ終わってしまえば、彗依の興味は死体からはすぐにそれる。
踵を返して、そんな光景をただただ傍観していた男の元へと戻りかけて。

「彗依」
「ン?」
「――…後、始末」
「あ。ンン。燃やしちゃえば。いい?」
「そうしてくれ」

男の声に、彗依はひらりと手を一閃する。
とたん、その手の軌跡から生まれた劫火が路地に斃れた死体をあっという間に包みこみ、消してしまった。
灰すら残らない。

「お腹は――…満ちたか?」
「八割。ぐらい?」
「――……。
君にお腹いっぱい食べさせてあげたいとは思うが――……、ヒトゴロシがそうゴロゴロしているわけもないしな」
「悪い。こと。した人なら。喰ッてしまッても。イイ。ンだろ」
「そうだね」
「泥棒は?」
「命で贖うほどの罪では――……、ないように思えるが」
「(´・ω・`)」

しょんぼりととた彗依の頭を、男は子供を慰めるように撫でてやる。
たった今目の前でひとひとり喰い殺した獣を前に、男はゆるりと口元に笑みを浮かべたまま。
人間を捕食する天使よりも何よりも。
そんな獣を飼い慣らすこの男のほうが、よほど狂っているのかもしれない。

「デザートに――……、コンビニでフルーツゼリーでも買って帰ろうか」
「わーい! 俺。さくらんぼのが。いいです。あ。ライチも捨てがたい」
「じゃあ――……、両方で」
「わーい!」

そんなのどかな会話を繰り広げながら、二人の背はのんびりと路地裏の闇に溶けていく。
後に残されるのは――……、血に汚れた包丁がただ一つ。
闇に葬られた強盗の墓標のよう、転がっていた。




END