就職氷河期なんて言葉は、嘘だと思った。
メディアは散々その言葉を繰り返して俺達の不安を煽る。
友人は、面接を100社以上受けて、未だに内定がないらしい。
別のテレビでインタビューされていた青年は、申し込んだ会社がすでに200社を
超えたとも言っていた。
だがそれはきっと、彼らに問題があるのだ。

そうでなければ――…今手元にある採用通知が存在するはずもない。

彼、一貴が受けたのはまだ三社。
三社目で採用通知がこうして届いているのだ。
何かの間違いではないかと、何度も手元の書類を確認する。

「……間違い、ないよな」

呟く。
一人暮らしの部屋で、誰が答えるわけでもないが声に出しでもしないと
自分でも信じられない。
まさか採用されるとは思っていなかったのだ。
一貴が本番前の練習のつもりで受けた会社は、いわゆるベンチャー企業だ。
正社員募集の記事を見て、ネットで検索をかけて調べてみたところ、 ここ最近でぐっと伸びてきている将来性有望な会社だった。
仕事の内容は、プログラムの開発だ。
一貴自身、趣味でパソコンを少々弄った経験があるので、
文系SEにならなれるだろうという甘い目論見があった。
何せ、正社員募集の記事には、未経験者でも構わないと書いてあるのだ。
実際面接のときにも、
一貴は正直にSEとしての資格を持っていないことも相手側に伝えた。
今現在の自分に出来ることを、限りなく正直に伝えたつもりだ。

「それで採用ってことは――…、俺、見込みがあるってことだよな」

受験などとは違い、何がゴールなのかが分からないのが就職活動だ。
何点を取れば合格などいう目安もない。
ただ、一方的に己という人間の価値を社会によって測られ、見定められる。
何人もの友人がどこにも就職が決まらず、誰にも認められずにいる中で、
こうして就職戦争の泥沼からいち早く脱することが出来たことは、一貴の自尊心を擽った。
人に認められるということは、こんなにも気分のいいことなのか。
そう思う一方で、自分のことを認めてくれた会社のために頑張ろうと、
そう心の底から思うことが出来た。






 そうこうしているうちに、大学の卒業式を終え、正式に入社する日を迎えた。
一貴の友人の中には、未だ就職が決まらないのだと浮かぬ顔をしている者もいた。
そんな姿を見ていると、やはり自分は運が良かったのだと思わざるを得ない。
電車を乗り継いで、面接で一度訪れた会社へと向かう。
この会社では、特に入社式というようなことはないらしい。
即戦力になってもらえる人材を探しているのだと、面接では言っていた。
どんな風に働けるのか。
どんな風に己を役立てることが出来るのか。
自然、会社へと向かう足取りは弾む。
大通りから逸れてわき道へ。
少し変わった名前の飲み屋の看板が目印だ。
会社帰りにこういった店で飲むのも、いかにもサラリーマンって感じでいいよな、
なんてのんきなことを思う。
テレビや漫画で見るサラリーマンの立場に自分がなるのだと思うと、
不思議とわくわくとした。
細いわき道に入って、しばらく歩くと会社のビルが見えてくる。
6階建ての、なかなか立派なビルだ。
さすが、最近調子のいいベンチャー企業だ。
こうして会社の外観を見ているだけでも、羽振りがいいのが分かる。
エントランスから中に入って、エレベーターに乗り込んだ。
心臓がドキドキと高鳴る。
目的の階は五階。
六階は社長がプライベートで使っているのだと、聞いていた。
面接で訪れた会社は、ワンフロアだけとはいえなかなか広かった。
あれと同じだけの面積の部屋を、ワンフロアまるまるプライベートルームに当てているのだ。
やはり、この会社は羽振りがいい。
エレベーターを降りてすぐに、受付の女の子が立っているのに気づいた。

「新入社員の方ですね?」
「あ、はい。
今日から入ることになりました、よろしくお願いします」
「よろしくお願いしますね。
では、私があなたの担当になりますので、こちらこそよろしくお願いしますね」

にこやかに挨拶をされる。
感じのいい女性だ。
年齢的には一貴と同じぐらいだろうか。
彼女は一貴をまずはデスクへと案内してくれた。

「……わ」
「ふふ、机が大きいでしょう?
ここでは、社員の一人一人にパーソナルエリアを与えることになっているんですよ。
広々と作業に出来るデスクっていいですよね」
「本当ですね……」
「それじゃあ、荷物を置いたら応接間の方へ。
そちらで、これからのことについて説明させていただきますね」
「はい!」

一貴は、気合の入った返事をして荷物を椅子へと引っ掛けた。
そのときふと、気づく。
社内にはそれなりの人間がいるはずなのに、話し声一つしない。
響くのは、キーボードを叩くカタカタカタカタという無機質な音だけだ。
ただ、その音だけが社内のあちこちから響きあい、
奇妙なハーモニーとなって空間に満ちている。

「では、こちらへ」
「あ、はい」

なんでもないように彼女に促され、応接間へと向かった。








 一貴が応接間で受けた説明は、一風変わっていた。
まず第一に、会社内での交流が一切認められていないのだ。
プログラムの開発という繊細な業務を取り扱うこともあり、
そのため守秘義務を厳守するための手段なのだと説明された。
フロアの中が、あんなにも静かだった意味を理解する。
あれは、会話を禁じられているからなのだ。
私語禁止ではなく、交流そのものを禁じられているというのが異様にも感じられたが……。
ベンチャー企業には、風変わりな社則があるところが多い。
むしろそういった新しいことをやるだけの斬新さを持ち合わせているからこそ、
この不況の中でも立派に成果を挙げていくことが出来るのだろう。
そして次に、仕事内容の説明があった。
基本的に初心者である一貴の仕事は、初期のプログラムを組むことだった。
一貴の書いたプログラムが次の人間にまわり、そこで丁寧に修正され、
製品に使われることになるらしい。

「完成したあとに、もう一度そのプログラムをあなたに渡しますので、
どこをどう修正されたのかをしっかりと確認してくださいね。
そうやって勉強していけば、すぐに一人前のプログラマになれますよ」
「……が、頑張ります!」

彼女の勇気付けるような声に、一貴は張り切って返事を返した。





 そして、実際の業務が始まる。
最初のうちは、何もかもが分からなかった。
だが、会社内は交流禁止だ。
誰かに何かを聞くわけにもいかない。
自腹で本を買い、勉強した。
勉強した内容がすぐその翌日からでも仕事の役にたつのだと思うと、勉強のし甲斐がある。
新しい知識を脳内に詰め込み、
すぐにでもそれを使う機会があるというのはなかなかに面白かった。
この会社では裁量労働制で、
任された仕事を決められた時間の中で終わらせればいいことになっている。
だが、新人の一貴がそう簡単に仕事を終わらせることが出来るわけもなく、
毎日毎日帰りは終電になった。
それでも、やり甲斐はあった。
そんなある日のことだ。
そろそろ昼休憩にでも行くか、と席から立ち上がろうとしたところで、
同じタイミングで椅子を引いた後ろの席の男性と椅子がぶつかってしまったのだ。

「あ、すいません」
「や、こちらこそ」

短くお互いに謝りあって、席を立つ。
伸びをして、フロアを出る。
す、っと、一貴の前に影がさした。
受付の彼女だ。

「あ、こんに……」
「今、何話していたんですか?」
「え?」
「今、後ろの席の人と会話していましたよね?
何を話していたんですか?」
「ええと……」

……違和感を覚えた。
一貴の席は、フロアの中でも奥のほうに当たる。
そして、彼女はフロアの外の受付席に座っているのだ。
それなのに、どうして彼女が一貴が後ろの席の人物と言葉を交わしたことを
知っているのだろう。
いくら他に喋っている人間がいないからといって、ここまで聞こえるものだろうか。

「何を話していたんですか?」

もう一度同じ質問を繰り返された。
彼女は、最初にあったときと同じように感じのいい笑みを浮かべている。
それなのに、その笑みを薄ら寒いと思ってしまったのはどうしてだろう。

「……今、立ち上がろうとしたら。
タイミングがヘンな風にあっちゃって、椅子がぶつかったんです。
それで、お互いに謝っただけですよ」
「…………」

探るような、舐めるような視線が肌の上を這うのが分かる。
女性の、「見る眼が痴漢」という言い分を理解してしまったような気がした。
女性たが厭だというのは、きっとこういう視線なのだ。
彼女は、一貴の言葉に嘘がないと判じたのか、にこりっと口元に笑みを浮かべた。

「ああ、そうだったんですか?
それなら、よかったです。
今からごはんですか?
気をつけて言ってきてくださいね!」

何事もなかったかのように、見送りの挨拶をされた。
なんとなく釈然としない気持ちを抱えつつも、一貴はエレベーターに乗って階下へと降りた。
違和感は、美味くて安い蕎麦屋にて蕎麦を啜っているうちに忘れてしまった。






 ……疲れた。
そんなことをあくまで心の中でぼやいて、一貴は伸びをした。
なかなか規定の時間内に仕事を終わらせることの出来ない一貴は、
一日に12時間以上も椅子に座りっぱなしになる。
基本的には一日8時間労働だと決まっているのは知っていたが、
それでも仕事が終わらないのだから仕方ない。
椅子に座ったまま腰を捻り、軽いストレッチをする。
腰を捻ったとたん、ばきぼきっと腰がすごい音をたてた。

「……ふう。
…………?」

そのまま息を吐いて、仕事に戻ろうとしておかしなことに気づいた。
向かいの席に、人がいない。
昨日までは、痩せぎすの男性が一貴と同じように一心不乱にキーボードを叩いていた。
その彼が、今日はいない。
もしかしたら、休みを取っているのだろうか。
この会社では休みも自分で好きに申請することができる。
会社としての定休日は、毎週土曜だけだ。
それ以外に関しては、月に何度か決まった日数分だけ休みを申請できる仕組みになっている。
なので、誰がいつ休んでもおかしくはない。
おかしくはないが――…やっぱり、違和感を覚えた。

彼は、次の日も出社してこなかった。
次の次の日も、出社してこなかった。

そして何時の間にか、彼とは似ても似つかぬ、一貴と同い年ほどの男性がその席についた。
彼がどうしたのか、どうなったのかについての説明は一切なかった。






 それが、切欠だ。
一貴は、少し注意を周囲に向けてみるようになった。
今までは自分の仕事に夢中になっていたが、少しずつ慣れてきて余裕も出来てきた。
その分、周囲を見ることが出来るようになったのだ。
そして、気づいてしまった。

人が入れ替わっている。

誰も知らないうちに、気づかないうちに、社内の顔ぶれがひそやかに変わっていた。
気づいたらデスクが空になり、そしてまた新しい人物が入る。
その人物も、最短三日で消えたりもする。
誰も干渉しない。
どうなったのかを誰も知らない。
どこへ行ってしまったのかも、何があったのかも分からない。
ただ淡々と、そこに座る人だけが変わっているのだ。


ふと。
もしこれが自分でも。
ある日突然自分がこの会社から消えても、誰も気づかないかもしれないと思った。


それは。
ひどく――…不吉な予感にも似ていた。








 一貴は、毎日仕事が終わると業務連絡を書く。
今日一日で何をしたのかを書いたメモを添えて、
その日の提出物を上司のフォルダに放り込むのだ。
上司のフォルダの中を開くことは許されていない。
一貴に許されているのは、提出物を纏めたファイルを、上司のフォルダに移すだけだ。
毎日は相変わらずだ。
一貴はひたすら自己流でプログラムを書き、納期までにそれを上司のフォルダに提出する。
ただその繰り返しだ。
相変わらず、人の入れ替わりは激しい。

まあ、忙しいからな。

そう思いもする。
朝から晩まで働いて、退社するのはたいてい終電ぎりぎりだ。
こんな生活に嫌気がさす人間がいたとしても、おかしくはないだろう。
一貴だって、たまに辞めたくなる。
だがそれでも、この就職難の時代に拾ってもらったとことを考えると、頑張ろうと思えるのだ。
実際同じように感じている人間はいるのか、何人かの社員は会社に泊まることもザラのようだ。
一貴は何とか終電で帰るようにしているが……。
よく考えると、会社に泊まってしまえば出勤時間が要らなくなる。
そうするとそれだけ睡眠時間に回すことが出来るようになる。
そう考えてみると、会社に泊まりこむというのはなかなか悪い話ではないような気がした。





一貴は、会社に泊まりこみで仕事をするようになった。
二日に一回は会社に泊まり、朝方まで仕事をする。
そして仮眠をとって、また朝からデスクに座る。
そんな生活の繰り返しだ。
最初は少しキツいとも思ったが、すぐに慣れた。
何せ同じような生活をしている人間がすぐ傍にたくさんいる。
皆、一貴と同じようなものだった。






それはある日、一貴がいつものように昼食のために会社を抜けた折のことだった。

「すいません、」

背後から声をかけられた。
振り返った先には、なんとなく見覚えのある男が立っていた。

「ええと……」
「藤田です。
向かいの席に座ってる」
「ああ、」

思い出した。
彼だ。
一貴の向かいの席に座っている青年だ。

「……っ!」

念のため周囲を見渡す。
前の一件を思い出したからだ。
ちょっと椅子がぶつかって、そのことについてを謝罪しただけであれだけ敏感に反応されたのだ。
こんな風に立ち話をしているところなど、見られたら何を言われるか分かったものではない。
が、すぐにそんな心配をする必要はないことに気がついた。
何故なら、一貴はいつものように彼女に挨拶をしてからエレベーターで降りてきている。
彼女は五階のフロアにいる。
一階にいる一貴と彼の様子が分かるはずがない。

「ええっと、俺に何か?」
「ええ、ちょっと、先輩に話が」
「……先輩?」
「だって、僕よりこの会社長いでしょう?
だったら先輩ですよ」
「…………」

先輩。
そんな他愛のない響きに、なんだか叫びだしたいような衝動を覚えてしまった。
そして、その理由にも気づいてしまう。
一貴はこの数週間。
誰とも口を利いていなかった。
受付の彼女と挨拶を交わしたぐらいだ。
会話らしい会話を、誰ともしていない。
その事実に気づいたら、急に胸のうちからたくさんの言葉があふれ出てしまいそうになった。
脈絡もなく、意味もなく、何かを彼に話したいという欲求だけが膨らんでいく。

話したい。
会話がしたい。
声が聞きたい。

ぐつぐつとそんな欲求が胸のうちで煮詰まる。
もしかしたら、自分は頭がおかしくなったのかもしれないとまで思った。
普通に会社で働いているぐらいで、こんな風になるものなのだろうか。





普通?





何か、考えてはいけないことに思考が触れかけた。

「先輩、ちょっと聞いて欲しいんですけど。
……この会社、おかしくないですか?」
「…………。
ちょっと、こっち来い」

一貴は彼の腕を掴むと、ぐいぐいと引っ張ってエントランスの外へ向かう。
被害妄想気味なのは分かっていた。
だが、なんとなく。
彼女のあの薄気味悪い舐めるような視線を、首筋に感じたような気がしたのだ。
エレベーターは動いていない。
だからそんなことがあるはずがないのは分かっているのに。
それでも、会社というテリトリーの中でそのことを話題にすることに――…そう。
一貴は恐怖にも似た感情を覚えていたのだ。






 昼食時ということもあって、藤田と名乗った彼を連れ込んだ店内は賑やかだった。
その喧騒に触れて、初めて一貴は安堵する。
そして、改めて彼へと向き直った。

「で、あの会社の何がおかしいって?」
「ああ、そうなんですよ」

お互い適当に注文をすませ、会話を仕切りなおす。

「先輩って、業務連絡どうしてます?」
「俺か?
俺は普通に上司のフォルダに放り込んでいるよ。
そうしろって言われているし」
「僕も、そうなんです」
「皆そうなんじゃないのか?」
「……そう、なんですけど」

彼はそこで、言いにくそうに口ごもった。
伏せた視線が、うろりと彷徨う。

「なんだよ。
それがどうかしたのか?」
「……いえ。その。
僕、あのフォルダ開けちゃったんですよね」
「は?
あれ、開いちゃ駄目だろ。
入れる専門だろ」
「いや、そうなんですけど。
ちょっと手が滑って――…ダブルクリックしちゃったんですよ」

してはいけないミスではあるが、同時にありがちなミスでもある。
そうやって聞くと、これまで一貴がうっかりあのフォルダを
開いてしまわなかったことのほうが、すごいような気がしてくる。

「……それで、僕、見ちゃったんですよね」

彼は、ぽつりと吐き出した。
声が不安そうに揺れる。

「あの、フォルダの中。
ファイルがぎっちり入ってました」

何を、と思った。
あたりまえだ。
社員全員が、あのフォルダの中に業務連絡を放り込むのだ。
当然その数は少なくはないだろう。

「おまえ、そりゃ――…」
「1000はあったと思います 」
「な――」

言葉が、でてこなかった。
ぎっちり。
一つのフォルダの中に、それだけのファイルが入っていればぎっちりともいいたくなるだろう。

「……僕、気になって。
いけないことだとは分かっていたんですけど……」
「…………」

ちらりと彼が一貴の様子を伺う。
秘密を打ち明けるのに、一貴が信用にたる人物かどうかを探ろうとしているのだ。
だから、一貴は促すように頷いた。

「……一番古そうなファイルを、開いたんです」
「それで」

促す声が掠れた。
食事の途中だったが、箸を進める気には到底なれない。



「三年前の業務連絡でした」



――…三年前の業務連絡。
そんなものが、普通連絡用のファイルに残っているものだろうか。
いくら上司がずぼらで、整理の出来ない人間だとしても……。
と、そこまで考えて、また怖い考えに行き当たってしまった。





上司って誰だ。





彼女に説明されるまま、一貴は毎日業務連絡をそのフォルダの中に入れ続けてきた。
毎日毎日、そうしてきた。
だが、上司を紹介されたことはない。
上司からの指示を受けたことはない。
いつの間にか、ネットワーク上に新しい一貴宛の指示が入っているだけだ。
一貴は画面越しに上司の存在を確認していただけだ。

じゃあ、実在する上司はどこにいる?

一貴がいる間に、次々と社員は顔を変えた。
どんどんと入れ替わっていった。
入れ替わっていない人物こそが、上司なのだと思うもののそれが誰なのかが分からない。
そして、三年前の業務連絡が入りっぱなしになっているという上司のフォルダ。
賑やかな喧騒に充ちた店内だというのに、背筋がぞっと冷たくなる。

一貴は誰のために働いている?
何のために、働いている?

もしもこれまでしてきた内容が、誰にも評価されていないのなら。
誰も、知らないのなら。
誰にもチェックされていないのだとしたら。
これまで一貴がしてきたことは、一体なんだというのか。

「先輩、あの会社……、おかしくないですか?」
「…………」

言われなくても、本当は分かっていた。
あの会社はおかしい。
ただその事実を認めるのが、一貴が怖かっただけだ。
せっかく手に入れた正社員という立場を失うのが怖くて、ずっと眼をつぶっていたのだ。
だが今。
眼をつぶり続けているほうが怖い。

「なあ、藤田。
メルアド、交換しようぜ」
「……え?」
「ほら、会社の中だと交流禁止だろ?
でも、メールならバレる心配もない。
互い何かわかったら、メールしようぜ」
「ああ、分かりました……!」

赤外線を使って、彼が一貴の携帯へとアドレスを送ってきてくれた。
あとはそこに書いてあるアドレスに、一貴が返信すれば登録が済むはずだ。
ぽちぽちと携帯を操作して、彼へとメールを送る。
ちゃらっちゃっちゃー、と昔懐かしのアニソンが流れた。

「ぶ。
おまえ、着信アニソンかよ」
「いいじゃないですか、好きなんですよ」

もしかしたら藤田はオタクなのかもしれない。
そんなことを思いつつ、席を立った。
食事はまだ半分ほど残っているが、もう食べる気にはなれない。

「俺は先に戻るよ。
一緒に戻ると、怪しまれそうだからな。
おまえはちょっと時間差で戻ってくるといい」
「分かりました!」

手を軽くあげ、そして一貴は会計を済ませると店を出た。
会社へと向かって歩きながら考える。
だが、どう考えても意味が分からない。
給料はちゃんと入っている。
毎月給料日になると、銀行の口座に給料分の金額が振り込まれている。
もしも藤田の言うことが正しくて、誰も何も見ていないのなら、
無駄な労働に毎月賃金を払い続けることに何の意味があるのだろう。
意味なんてあるはずがない。
そんなことを考えているうちに、会社に着いた。
エレベーターに乗って、フロアへとあがる。

「ああ、おかえりなさい」
「あ」

エレベーターを降りたところで、受付の彼女ににこやかに迎えられた。
咄嗟のことに、言葉が出ない。

「ふふ、ぼんやりしていますけど大丈夫ですか?
仕事、疲れてませんか?」
「ああ、そうですね。
ちょっと仕事で疲れているみたいで」
「それはいけませんよ。
ちゃんと――……ごはんもしっかり食べないと」
「……っ!」

ぞくぞくと背中を悪寒が這い上がる。
彼女は笑顔だ。
客を迎える穏やかで柔らかい受付嬢の笑み。
だが、その笑みの向こうに得体の知れない何かが滲み出し、
滴り落ちているような気がした。

「はは、そうですね。
……疲れていると、人間食欲、なくなりますもんね」

渇いた声で、心にもない言葉を返す。
これは一貴の願望だ。
見られていたわけでも、聞かれていたわけでもなくあってくれという。
疲れると食欲がなくなるという一般論に責任を押し付けてしまいたいだけだ。

「……ええ。
そうですよ」

彼女の声が、意味ありげに響くのもきっと気のせいだ。
一貴は彼女へと会釈をしてフロアへと逃げ込む。
これ以上彼女と話をしていたくなかった。
これ以上得たいの知れない何かを見てしまうのが怖かった。
さっさと席に戻って、仕事の続きに取り掛かる。


――あの、フォルダの中。
ファイルがぎっちり入ってました――


ふと、藤田の言葉を思い出した。
フォルダを、開いてみようかいう誘惑が、胸のうちに生まれた。

開いてはいけないフォルダ。
開けてはいけないフォルダ。

そっとカーソルを合わせる。
ダブルクリックをすれば、このフォルダは開く。
藤田の言葉が本当だったのかどうかが分かる。
だが、それを確かめてしまうと――…後戻りできなくなる気がする。
一貴は、カーソルをそっと業務連絡用のフォルダから外した。

「…………」

そして、仕事に戻る。







カタカタとキーボードを叩く音だけが周囲には響く。
そろそろ、終電の時間が近い。
今一貴がしているのは、本日分を過ぎた仕事のものだ。
今日の分の業務連絡は随分と前に提出した。

「…………」

そっと周囲を見渡すが、誰も何もおかしな反応はしていない。
もしかしたら、今日が特別チェックが遅いだけなのかもしれないが……。
一貴は今日の分の作業を、昨日とまったく同じもので提出した。
名前も同じだ。
きちんと提出物を確認していれば、すぐに気づくはずのミスだ。
もし気づかれて何か言われたら、提出ファイルを間違えたと謝ればいい。
だが、本日の業務連絡を終えて数時間経つ今も、誰も何も言ってこない。
次第に、藤田の言っていた言葉が信憑性をより増していく。
なんとなく伸びをするついで、向かいの席へとちらりと視線をやる。
デスクが広い分、パテーションもしっかりしており、
そのため見ようと思わなければ向かいの席の様子を伺うことは出来ないのだ。

「……?」

藤田の席は空だった。
もう帰ったのだろうか。
基本的には仕事に戻れば席から離れることも少ないが、
だからといってずっと机にかじりついているわけではない。
トイレに抜け出したり、トイレ休憩ついでにちょっとぼんやりしたりぐらいはする。
もしかしたらその間に帰ったのかもしれない。
実際机の上に荷物はない。
一瞬、昼から戻ってないのではなんて怖いことを考えてしまった。

ないない。
さすがにそれはない。

そんなのは怖すぎる。
まるで怪談だ。
いや、都市伝説に近いのかもしれない。
一貴は手早くパソコンの電源を落とすと、帰る準備を始めた。
明日になっても、誰も何も今日の一貴の提出物について何も言ってこなければ、
またそのとき考えようと思ったのだ。
たった一日チェックが遅れただけで、妙な疑いをかけるのもおかしな話だ。
早足にフロアをでる。
日中は受付には彼女が座っているが、さすがにこの時間になると彼女もいない。
会社に泊まったり、遅くまで残るのはもっぱら実際の開発業務に関わっている社員だけだ。
誰もいない廊下は薄暗い。
エレベーターを待ちながら、メールを打つ。
宛先は藤田だ。
名前は偽名で登録しておいたので、万が一見つかったとしても本文を見られない限り大丈夫だろう。

ああ、送ったら送信記録を削除しておかないと。

そんなスパイ活動めいたことを考えながら、今から帰る旨を書いて、送信する。
明日もまた昼食を一緒に食って、相談しよう。
そんなことを思いながら、あがってきたエレベーターに乗り込む。







ちゃらっちゃっちゃー






背中で、聞き覚えのある着信音が響くのが分かった。
……藤田?



『ぶ。
おまえ、着信アニソンかよ』
『いいじゃないですか、好きなんですよ』



昼間の会話を思い出す。
これは藤田の携帯の着信音だ。
だが、何故。
藤田はもう退社したはずじゃないのか。
机に荷物はなかった。
頭の中が真っ白になる。
振り返って確かめればいいのは分かっている。
それで、藤田がいれば問題ない。
もしくは、藤田の携帯でも落ちていればそれでいいのだ。
あの馬鹿、携帯落として帰りやがった、と笑って。
拾ってやればいい。
そして明日にでもこっそり返せばいいのだ。
そう分かっているのに、振り返ることが出来なかった。
エレベーターのドアが、動く音がする。
ここで確認しなければ、余計にずっと怯えることになる。
一貴は、覚悟を決めて――…振り返った。
閉まり行くエレベーターのドアの向こうには、誰もいなかった。
携帯も落ちていたりはしなかった。
ただ、着信を示す携帯の点滅だけが、エレベーターの向かいにある物置の隙間から
ちかちかと光っているのが見えた。
そして、その光に照らされて――…何か赤黒い液体らしきものが、
物置の隙間からにじみでているのも、見えてしまった。

「――…ッ!!」

悲鳴をあげそうになった。
どうして。
そこに。
何故。
あれは。
何。






全力で、壊れるんじゃないかと思う勢いでエレベーターのボタンを連打した。
それで早くつくのならばそれでいいと思った。
ばちんばちんと叩くようにボタンを押す。
そして、一階につくや否や一貴は飛び出した。
もう何も考えたくない。
考えてはいけない。
ただただに、走る。
立ち止まったら、恐ろしいものに背中から喰われてしまう気がした。
だから、走り続ける。
そして、最後に。
カッっと。
白い光に、包まれた。












 一貴は、ぼんやりと白い天井を見上げた。
――…病院の一室でのことだ。
あの日、無我夢中で全力疾走で車道に飛び出した一貴は、
見事車に撥ねられる交通事故にあったのだ。
もちろん、飛び出した一貴に非は大きい。
運転手とは示談で話がついた。
病院に運び込まれてすぐ、一貴は会社が藤田が、とうわごとのように繰り返し、
医者はすわ頭を打ったかと脳波を調べた。
その結果は、異常ナシ。
一貴のケガは、右足の骨折だけで済んだ。
そして一週間の入院。
病院での規則正しい生活と、穏やかな日々は、
会社での出来事が夢か何かのように思わせるには充分だった。
入院して三日目、一貴は携帯からおそるおそる会社へと電話をかけた。
が、電波が悪いのか、回線が混んでいるのか、その電話が繋がることはなかった。
藤田にも、何度かメールを送ってみた。
返事はなかった。
ただ、三度目には宛先不明で送ったメールがそのまま戻ってきた。
何がどうなったのかが、分からない。
得体の知れないものを丸呑みにしてしまったかのような、
もやもやとしたものだけが腹の内に澱む。
そんなわけなので。
退院したその足で、会社に向かうことにした。
松葉杖を手放せないため、駅からはタクシーを使う。
もう、あの会社で続けるつもりはなかった。
それでも、辞めるには辞めるなりのケジメが必要だろう。
それに、会社側としても一貴は一週間の無断欠勤になる。
いくら連絡がつけられなかったからといっても、言い訳にはならない。
そう思うと、逆にすっきりとした。
いろいろな偶然が重なっただけだろうが、あんな不気味な思いをしたのだ。
そういった意味でも、戻る気にはなれない。

「そっちで曲がってください」
「……ここでいいんですか?」
「え?ええ。
そこをまっすぐ」

タクシーの運転手に指示を出して、会社への道を辿る。
何故か不審そうな顔をする運転手に、もう一度指示を繰り返して、
あの特徴的な飲み屋の角を曲がった。
そして、まっすぐ走らせると会社が――……


「え?」


そんな声が思わず漏れた。
六階建ての立派なビルがあるはずのそこには、廃墟があるだけだった。
いや、確かに面影はある。
六階建てでも、ある。
だが、全面的に荒れ果て、ところどころ焼け焦げ、崩れ、完全に廃墟と化している。

「え……。
か、火事があったんですか……!?」

道理で連絡がつかないはずだ。

「あー、そうだね。
大きな火事でねえ……。
死者もたくさん出た大変な火事だったらしいよ。
何でも、五階に入ってたコンピューター会社の社長が、仕事でコケたらしくてね。
……最終的に、ちょっとおかしくなって、その社長が会社に火をつけたみたいだよ。
六階の自分の部屋で火を出して……、会社自体のフロアが五階だろう?
だから、なかなか皆逃げられなかったみたいでねえ……。
社員のほとんども亡くなったって話だよ」
「そんな……」

皆、死んでしまったのだろうか。
そして、何も分からないまま終わってしまうのだろうか。
藤田がどうなってしまったのかも。
この会社が一体なんだったのかも分からないまま。

「誰か、この会社の関係者の方って知りませんか?
俺、ここの社員なんです」
「……え?
社員さん?」
「ええ。
今年の春から――……」
「おいおい、あんたからかったらいけないよ」
「……え?」
「火事があったのは――……三年前の話だよ」





三年前。
一番古いファイルは三年前から。
ぎっちり。
  詰まった。
 業務用の。
   連絡ファイル。








「すいません、駅に向かってもらえますか。
今すぐに」
「あいよ」

タクシーが走り出す。
一貴はもう、振り返らない。





END