町外れの廃ビルの屋上。
誰も見上げぬその先に、立つ人影がひとつ。



「つみぶかきバケモノどもをかりたてよ」



男の呪詛めいた声音が風にのる。
年のわからぬ低く嗄れた声は、声としてどこか異質な響きを孕んでいた。
硝子の板を爪で引っ掻く軋んだ音のような。
何か得体のしれないモノが人を模して声を合成しているかのような。

ああ、そう。

きっと男はもう人を辞めてしまっていたのだろう。
声と同じく枯れた棒切れのような腕が、震えながら虚空へと差し伸べられる。
その手の中には小瓶。
親指の腹に押し上げられて、きゅぽ、と小瓶を封じていたコルクが引き抜かれる。
用済みとなったコルクは、くるくる、くるくると回りながら堕ちていく。
しかし、男の眼はもうそれを見ていない。
もう、コルクに意味はないのだ。
男の目的は小瓶に満ちた「何か」を解き放つことにあるのだから。


―――それは、蛍光グリーン輝くとろりとした粘質の液体のように見えた。


「はは、ははは、はは」

朽ちかけた死骸めいた男が嗤う。
解き放たれた小瓶の口より、確かに液体に見えていたそれが、
淡く燐光放つ粒子となって虚空へ舞い上がる。
それは蛍のように淡く、うつくしく、禍々しく。
男の周囲を漂う燐光は、風に乗り夜闇を汚して街へと降り注ぐ。
男の眼下に煌めく人の営み象徴する光へと、とろとろ、とろとろと。
やがて小瓶の中身がすっかり空になったのを見届けると、男の口が裂けるような笑みを形作る。
満足げに笑って、嗤って、嘲笑って。
男の身体はぐらりと揺れて、屋上の淵から消えた。
数秒後にどこかで、哀しいほどに軽やかな音が響いた。
が、それは男の言葉と同様に誰の耳に届かずに終わる。
誰に気付かれることもなく、誰に看取られることもなく。
それが男に訪れた終焉。
無機質な地面に叩きつけられた男の身体の下に、じわじわと黒い染みが広がっていく。
あの乾いた男のどこにこれだけの量が、と思うほどの体液がどろどろと地面を這う。
その眼前に、ふわりと蛍光グリーンの燐光が雪のよう舞い落ちたようだった。
血に溶けるよう、すぐに消える幻のような燐光。
衝撃に潰れた眼下には、もう見えなかっただろうけれども。




それが、始まり。




災いの種子はこうして解き放たれた。




















始まりは小さな痣。
種子のよう、小さく肌に宿った小さな罪の証。

「ちび、それどうした?」
「え?」
「それ、なんか手の甲に痣出来てないか?」
「あ、本当だ。……なんだろ。
心当たりはないのだけれども」

ちび、と呼ばれた少年の褐色の手の甲に、ぽつりと浮かんだ小さなまぁるい痣ヒトツ。
薄ら紅がかった、鮮やかな。

「――…なんだろ」

かり、と指先で軽くひっかいて。
穏やかに人との共生を望んだ獅子の仔は不思議そうに首を傾げるばかり。
誰も気づかない。
それがこれから始まる修羅の幕開けだっただなんて――……、誰も。
それはただそれだけの話。



























「随分と――…育ったな」

面倒くさそうにつぶやいて、男が手を空にかざす。
ワインレッドのカラーシャツを漆黒のスーツに合わせた長躯だ。
月明かりにすかすようなその手の甲には、黒々とした茨がのたうっている。
最初は手の甲に浮かんだ小さな痣だった。
やがてそれは芽吹き、茨となってその身を蝕んだ。
風変りな病だと笑えたのは最初だけ。
それが冒すのは人非ざるものだけなのだと知れてからは、その質の厄介さを忌々しく思うばかりだ。
人非ざる異種たちが、ひそやかに人の世に溶け込み出してどれほどの年月が流れただろう。
今更それを暴いたところで、誰が得をするというのか。
薄い黒の皮手袋の裾を行儀悪く咥えて、くいと引き下ろして茨を隠す。
異種狩りどもはすでに動き出している。
ターゲットがこうもわかりやすく見分けられる現状、異種への憎悪に身を焼くものどもがおとなしくしている謂れはない。
そう、それは今も。

「おい、動くな」

背後からかけられた声に、小さく息を吐く。

「俺に――…、何か用か?」
「テメェ、異種だろ」

答えなければ殺す、と。
そんな切羽詰った殺気のこもった問いにも、男の表情は変わらない。
緩く笑みをかたどったような唇、余裕の色が翳ることなく。

「どうして――…、君達はそう蛇の尾を踏みたがるのだろうな」

ゆるりと、口角を吊り上げて男が笑う。
老獪なその笑みには、どこか疲れにも似た色が滲んでいる。
幾度となく繰り返される事象にすっかり飽きてしまったかのような、それ故に穏やかな笑み。

ああ、これまで幾つの命を奪ってきただろう。
ああ、これまで何度それを己が望んだことがあっただろう。

男はただそこにあるだけ。
求められるままに知識を与え、気まぐれに加護を与えた。
そんな男はいつしか悪魔と呼ばれ、人々に使役され、気が付けば狩られる対象となった。

ああ、そんなことを誰が望んだだろう。

たった一度も。
たったの一度も。
男は自らの意志でもって<ひと>に害をなそうなどと思ったことはなかったのに。


「何故、君達は――…、そんなにも俺を敵に回したがるのだろうな」


それはきっと畏怖故に。
それを知りながら、男はうそりとわらった。
その背後で、漆黒の翼が天に浮かぶ月すら呑みこむように広がッて。

「――…ァ、」

異種狩りの若い男の悲鳴すら、呑みこんだ。




















赤い、朱い花が咲く。
鮮やかな緋色の花が、路地裏に咲き乱れる。
ひとの体内には、かくも鮮やかな色が潜んでいるのかと驚いてしまうほどに鮮やかな色彩が、薄汚れた路地裏を派手に彩る。
立ち込めるのは眉間に皺を寄せたくなるような臭気。
臓物の匂い。
死の匂い。
そんな赤にべたべたに塗れた世界で、モノクロの男が首を傾げる。
蒼褪めるほどに白い肌を包むのは、喪服めいた黒のスーツ。
幼子のよう無垢故に無感動な顔は、どこかぼんやりと夢見るよう。
その髪だけが、路地を彩る赤とよく似た色をしていた。

「あまい」

スーツの裾から覗く腕は、その両方が黒く肥大し、硬質化している。
指の一本一本が、鋭いナイフのように尖り。
しとりと濡れて光沢を帯びているのは、たったいま屠った命に塗れているせいだろう。
そっと持ち上げた右手、爪にこびりつく肉片を舌で舐めとってぽつりと呟く。
白い、白い顔。
その右半分を覆うようにうねるのは、黒い茨。
隠しようのない異種の証でもあるその茨は、次から次へと彼の前に獲物を引き寄せる。
自分らこそが狩人だと勘違いした異種狩りどもを、彼の前へと引きずりだす。
ぶちまけた臓物、返り血の赤はその顔にもはねて。
まるでそれは、黒い茨に鮮やかな花が咲いたよう。

「ふしぎ」

あどけない子供のよう小さく呟いて、彼はゆっくりと歩く。
肉の袋と化して路地に転がる異種狩りたちのなれの果てを好んでびちゃびちゃと踏みつける。
その行為に、意味はない。
己を狩ろうとしたものたちに対しての恨みでも、怒りでもない。
それはただ、子供が水たまりを踏みたがるように。
意味のない、無為な行為。
上質のスーツの裾を赤黒く血で汚しながら、無邪気なステップ。

「飽食の。時代?」

彼は人喰いだ。
<ひと>が愛しいが故に、喰わずにはいられない。
<ひと>が憎いが故に、喰わずにはいられない。
けれど、狩りすぎれば思わぬ反撃を招くことを彼は知っている。
だから、お腹が空いて、どうしようもなく我慢が出来なくなったら、路地裏でいなくなっても誰も気づかないような相手だけを狙って、こっそりと食餌にありついていた。
これまで<ひと>の自衛組織である警察に手配をかけられることもなく、異種狩りに特に目をつけられることもなく、ひそやかに人の世に紛れてきたつもりだ。
それなのに、この顔に黒い茨の紋様が浮かんで以来――…彼は「ごはん」に困らなくなった。

「俺なら。自分より。強いイキモノに。喧嘩売ろうなんて。思わないのに」

だッて怖いじゃないか、と小さく呟く。
痛いのは怖い。
怖いのも怖い。
死ぬのは怖い。
なのにどうして、彼らは怖がらないのだろう。
ただびとの身で、どうして人ではないとわかっている彼に、手出しをしようなどと思うのか。

「ふしぎ」

どうしてわからないのか。
目の前にいる人非ざるものがとっくに壊れてしまっていることに。
どうしてわからないのか。
目の前にいるのが、ギリギリでひとの形を保った獣でしかないことに。
手だしさえしなければ、それは生きる糧に必要な分しか殺さない。
けれど、手出しをされたら全力で牙を剥く。
痛いのが怖いから。
怖いのが怖いから。
死ぬのが怖いから。


「本当に―――ふしぎ」


かくりと首を傾げて、彼は呟く。
そして、赤黒いぬかるみを踏む遊びにも飽いて、小さく欠伸を漏らす。
そろそろねぐらに帰って眠る時間だ。
ねぐらに戻って、同居人の寝床に潜り込んで、その体温に甘え、朝ごはんには甘い果物がたべたいと強請る時間。
ふわりとその背から伸びるのは、穢れを知らぬ、うすらと燐光を放つ白い翼。
薄暗い路地に降臨せしその姿はまるで古の書物に伝わる天の御使いのよう。
ばさりと羽音ヒトツ残して、その姿は路地から消える。
後には、殺戮の限りが尽くされた人の残骸だけが残された。



























戯曲の開始を告げしは悲鳴。
路地裏から響く悲鳴に、少年が駆ける。
それは<ひとを守るもの>として創られたが故の衝動だったのか。
薄汚れた路地で、
神として創られながら人により廃棄され、それ故に神の座に焦がれる獅子神の仔と――…。
ひとを慈しみ愛しすぎたが故にかつて一度世界を滅ぼしかけた禁忌の天使とが邂逅する。




「――あなたは、なんだの」
「君の。ほうこそ。人じゃあ。ない。みたい。だが」






「どうして。人を。守りたがる」
「人が好きだから――……、じゃあ理由になっていないかしら」
「人は。君のこと。嫌いなのに?」
「……ッ!」




人を守るための存在として生まれたはずの獅子神。
人を守るために人によって創られた人あらざるもの。
皮肉なことにそれを迫害したのは人自身。
彼が人ではないから。
ただ一つそんな理でもって、人は彼の対を彼から奪った。
彼の半身を奪った。







「それでも俺は、ひとのかみさまだ」
「人は。君を。バケモノと。呼ぶのに?」
「好きに生きれば良いものを――……、若いな」







己の血肉を犠牲にしながら、それでも<かみさま>であろうとする仔と。
人の血肉を喰らいながら、それでも<てんし>であり続ける男と。
ただただ見守る<あくま>。






路地裏で出会った三者三様の人外は、異種を蝕む黒き茨を巡ってその運命をぶつけあう。
やがて重なりあった運命は一つの物語を織りあげる。



「俺の邪魔を――…、しないで頂戴ッ!!」

仔獅子が吼える。
咆哮とともに唸る右手から生まれた紅蓮の焔が、目の前に立ちふさがる障害を灼気尽くす。

「いって!」

その声に促されたよう、紅蓮に彩られた道を駆け抜けるは黒き獣。
緋色の髪をなびかせ、身を低くしての疾駆。
黒き爪に鈍く闇を纏わせ、敵を引き裂くために駆け抜ける。

「若いとはいいね。
だが――……、後のことも考えた方が良いよ。
まあ今回は特別サービスだ。
俺が相手をしてあげよう」

人の世に紛れて生きる悪魔がわらう。
長く人とかかわってきた男にとって、もはや人にとり己がどういう存在なのか、ということからは
良い意味でも悪い意味でも興味がそれてしまったのだ。
今はただ、己の酔狂でふわふわと世を漂うのみ。
全ては退屈凌ぎ。
たまには迷える若き同胞のために、力を駆使するのも悪くはないと、そう思えた。



踊る。
人非ざるものが黒き茨の森で舞い踊る。
果たしてその先に、どんな答えを見つけるのかも知らぬまま。





それは、黒き茨に彩られし物語。






――……この冬公開予定。
大嘘。